現在、坐禅、マインドフルネス、西野流呼吸法を混ぜた自分独特の方法で朝と夕方1時間ほど行っています。
最近は気付くことが多く、自分が大きく変化する時期に来ているなと感じています。
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我を減らすことの重要性
このような精神修養を始めた20歳代は、とにかく自分を変えたい、超人的な能力を開発して自分を人より優位にしたいという思いしかありませんでした。
今考えると、本当に劣等感の塊だったのです。
とにかく自分の性格が人より劣っていて、自分の本性を人に見せたら嫌われるから、自分を外に表現しないようにと常に気を使っていました。
今考えると神経衰弱という病気だったのです。
そんな20歳代が楽しいはずがありません。
常に自分の感覚を外に向けて、嫌われないように周りの事ばかり気にしていました。
そんな性格なので、アルコールが入ると一気に心の壁が外れて信じられないような開放感を感じることが出来ました。
これではアルコール依存症になるのも無理はないことでした。
これでは絶対ダメなので何とか自分の性格を変えたいと思い、たどり着いたのがヨガ、坐禅などの精神修養法でした。
ただ、そんな自分のためのことしか考えない精神修養法に効果が少ないのは、今になって本当に理解できます。
このような精神修養法の一番の効果は、なるべく精神を統一して無心になることです。
無心になることにより、宇宙の何かと繋がり自分を客観視することが非常に重要なのです。
自分が自分がと思う我があると、不思議とそのような宇宙の何かと繋がることから遠ざかるのです。
したがって、我を持った修行では、血の巡りが良くなり健康になる程度の効果しか期待できないのです。
その程度であれば、自分のような神経衰弱の症状にはあまり効果が無いのです。
我という魔物
我と聞くと何かマイナスのイメージが付きまといます。
特に日本人は欲望ということに対して消極的な感じを持ちます。
これは仏教思想から来ているのかもしれません。
そのような宗教では、無欲が苦を無くす唯一の方法だと説くことがあるからかもしれません。
しかし現実世界の我々の世界では、欲を無くしたら生活していくことが出来ません。
宗教では理想的なことを言うことが多いため、人々に誤解を与える表現が多いのも事実です。
欲望を持つことは必要だけれども、過度な欲望は人に苦しみを与えるくらいが丁度よい表現なのではないでしょうか。
しかし、我というものは人を盲目にするのも事実なのです。
お金、出世欲など、いくらあっても際限なく求めるものだし、それを抑制するのは非常に難しいといえます。
昔から際限ない欲望のため没落した人は無数にいるし、我は魔物と言ってよいほど人を悩み苦しめるものなのです。
我を静観する力
我とか欲望は人間には必ず必要なものなのです。
一番大事なことはそれに飲み込まれないことです。
我を持っている自分を、少し高みから見ている自分がいて、それを他人事のように見ることが一番重要なことなのです。
そして、自分のことを向上させるとか、自分の性格を変えてやると思いながら精神修養をやるのではなく、自分に与えられたことに感謝し、楽しみながら行うことが一番大切なのです。
これが、自分が数十年に渡り精神修養を行ってきた結果たどり着いた今の境地です。
つづく
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