悟りは無邪気
お釈迦さまは坐禅をして悟りを開いたとか、東洋では昔から人の一番上の境地のことを悟りと行ってきました。
そのようなイメージの悟りとは、何処か世間離れした手の届かない特別な人間になることのように感じるかもしれない。
以前テレビで悟りを開いたお坊さんの番組を見たが、その方は本当に子供のような心を持ち無邪気でした。
現在でも悟りを開いた人はいるのだが、中々お目にかかれないのはなぜなのだろう。
それはごくごく全く普通の人で、見わけが付かないからなのです。
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当たり前のことに気づく難しさ
悟りを開くとは何か特別な人間に変身するわけではなく、ごくごく普通の当たり前のことに気づいた人のことなのです。
普通の人が全く意識していない、例えば空気の有り難さを感じたり、水の素晴らしさを感じたり、食べて出すことの有難味を感じたりとか、普通の生活でなくてはならない事・物の必然性に気づくことなのです。
我々凡人は、病気にならなければ身体の有難味を分からない。
口から物を食べることがどれほど大変で複雑な筋肉の動きがなければ胃に入っていかないか、また、食べ物が腸で吸収され体の栄養になっていく過程など、現在の最先端科学でも分からないことだらけなのですが人体は完璧にそれを行うのです。
これほど不思議なことはないのです。
悟りを開いた人は、病気にならなくても普通の状態でこれらのことに気付けるということなのです。
特別な超能力があるわけではないので目立つこともなく、目立つ必要性もないためにほとんど普通の人と区別もつかないし、普通の生活に溶け込んでいるのです。
天真爛漫
ひょっとしたら、あなたの隣のいつもニコニコしているお婆ちゃんが悟りを開いた人かもしれない。
そのように悟った人を評価する必要もないし、昔から無数の人達が悟りを開いているはずなのです。
現在、書物などに書かれている悟った人は、偉人だけなので特別なことのように感じるけれども、皆子供のように無邪気で天真爛漫なのは単純にならなければ気付けないことだからです。
悟りとは当たり前のことを当たり前に気づくこと。
これが中々できない、禁酒することのように。
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